お薦め記事

50代で「定年前転職」を選んだ人に勇気をもらいましょう

人生楽しまないと!
スポンサーリンク

定年70歳時代が到来、「老後レス」をどう働きながら生きていくのか?

波平さんは何歳か

 現在の法律は企業に対し、①定年廃止、②定年延長、③再雇用などによって、従業員が65歳まで働ける機会を作ることを義務づけています。今回の改正法は、努力義務ではありますが、これを70歳まで延長するものです。現在の3つの対応に加え、①別の会社への再就職、②フリーランス契約への資金提供、③起業の後押し、④社会貢献活動への参加支援の4つも選択肢として認めます。

 定年と言えば、かつては55歳でした。それが60歳になり、65歳に引き上げられ、ついに70歳に達してしまいました。この間の推移を見てみましょう。

 まず、国民的漫画「サザエさん」の磯野波平を思い浮かべてください。サザエ、カツオ、ワカメの父で、一家の大黒柱ですね。禿上がった頭頂部に髪が1本、趣味は盆栽、家ではいつも和服姿でくつろいでいます。孫のイクラちゃんにも恵まれ、どう見ても完全なシルバーの雰囲気です。現代の感覚なら60代後半~70代のイメージでしょう。

 しかし波平さんは現役のサラリーマンで、作中では54歳という設定なのです。これには作品が描かれた時代背景が強く関係しているのでしょうが、漫画が新聞に連載された当時は定年55歳が一般的でした。そのため、定年間近の波平さんは54歳とされたわけです。ちょうど我々おじさんと同年代ですね。

 この55歳定年は、戦後から1980年代まで続きます。1994年に高年齢者雇用安定法が改正され、定年を60歳未満にすることが禁じられました。続いて2013年からは、65歳までの雇用を確保するため、前述の措置(定年廃止、定年延長、再雇用)をとることが企業に義務づけられます。そして政府は「一億総活躍」のかけ声の下、今度は70歳まで雇用を広げる法改正を実施しました。

 定年が先に延びれば、「老後」に到達するまで働く時間も延びることになります。そこで大切なのは、このまま今の勤務先に残るのか、あるいは別の道があるのか、自身にとって最善の選択肢を早めに考えておくことではないでしょうか。

 若手に疎まれ、「残念な働かない冴えないおじさん」などと呼ばれるぐらいなら、いっそのこと定年前に今の会社を飛び出し、新しい生き方に挑もう。そう考える人が増えてもおかしくありません。「老後レス社会」を見越して、早めの決断で次の一歩を進み出した中高年たちのケースを見てみましょう。

ケース1:大手電機メーカーからの転職

 人件費を削るために早期退職募集を始める企業が増えています。そのターゲットは多くが中高年ですが、追い出すどころか、中高年に絞った中途採用をしている会社が大阪にあります。機械設備の製造販売を手がける会社です。造船会社として1911年に創業したのだけど、1970~80年代の造船不況に苦しんだ時期、新卒をほとんど採用できなかったため、50代がぽっかり空いてしまっていたそうです。当時の社長が、管理職となる50代が足りない。一方、大企業にはそうした人材がくすぶっているということに着目し、7年からこうした管理職のシニア採用を始め、現在では22人が働いていると言います。
 55歳だったYさん(60歳)は、今から5年前に大手電機メーカーから転職しました。新卒で大手電機メーカーに入社したYさんは、AV機器の研究や開発、技術部門の事業企画など計34年間をそこで過ごしたそうです。定年を前に「もう一度新しい環境で挑戦を」と前述の大阪の会社に転職。入社後は、グループ会社の合併や新工場の建設を担当し、現在はグループ会社の役員になっているとのことです。大手電機メーカーで培ったマネジメント能力はこちらで大いに役立っていますとおっしゃっています。

ケース2:「1着10万円」から「100匹で5万円」への変換

 Kさん、59歳。現在は福島県で温泉施設やレストランなどを運営する第三セクターの取締役であり、特産品の開発・販売を手がける合同会社の代表も務めているそうです。
 転職前のKさんは、名門アパレルメーカーの営業マンだったそうです。欧州の有名なファッションブランドを日本で扱ってきた商社です。ところが、そのブランドのライセンス契約の終了が決まったことで、Kさんの充実した会社人生は大きな変化に見舞われました。その会社にとって売り上げの半分を占める屋台骨のブランドとの契約終了が社内に知られるようになったのは8年ほど前のこと。「社員数が多すぎる」という認識が広がり、会社の雰囲気がどうなっていくか予想がついたそうで、すぐにKさんは希望退職に応募することを決めたとのこと。そのとき53歳だったとそうです。
 そして7年前に退職。青森出身のKさんは「東北の被災地で力になりたい」と、役立ちそうな免許や整体師などの資格も取得したそうです。そんな横山さんに転機が訪れたのは5年前の春。先の会社の先輩から「福島県の温泉施設を手伝わないか」と誘われたのだそうです。二つ返事で引き受け、大車輪で働いたそうです。そして、この職場でのさまざまな出会いから、第2の人生が本格的に幕を開けます。
 4年前に、Kさんは福島県に移住し、特産品を手掛ける合同会社の実質的な経営者になっているとのことです。施設で販売するのは1匹500円のイワナや入浴料600円の日帰り温泉など。
「この年齢で、これだけやりがいのある仕事に出合えたことに感謝します。元の会社にしがみついていたら、このモチベーションは維持できなかったでしょう。いったん、すべてをリセットして、ゼロからスタートしたことが大きかった」とおっしゃっています。

ケース3:限界集落への移住

 岐阜県に生まれたNさんは、地元の大学を卒業し、薬品会社に就職したそうです。そして10年後には新聞求人欄で見つけた外資系企業に転職。臨床試験の手配などで病院を飛び回ったそうです。
 自然とマネジャーになり、10人ほど部下を抱えますが、「管理職はつまらない」と更に別の薬品会社に移ったのが18年前のこと。給料は下がっても、現場を回ることを望んだそうです。それでも年齢を重ねると、部下を持つマネジャーになり、6年前には研究開発本部で部長職に昇進したそうです。
 その頃、会社の指示で英会話学校に通い始めたそうですが、そこで講師を務める南アフリカ出身の60代男性に「毎朝、むすっと黙って満員電車に揺られて、お前たち日本人は幸せなのか?」と言われたそうです。Nさんはこの一言から自身の仕事と人生について、考えを巡らすようになったとのこと。
 30年に及ぶ製薬会社勤務のキャリアに別れを告げると退職を決意したNさんの脳裏には、少し前に見た光景が浮かんでいました。ドライブで訪れた新潟県のとある市の田園風景だそうです。雪国の山間部の傾斜地に、階段状に広がる水田が美しい田園風景を織りなし、現在では人気の観光スポットになっています。しかし、その耕作に並々ならぬ時間と労力を要することは、あまり知られていません。

 そこで、Nさんは都内で開かれた「地域おこし協力隊」の募集イベントで、新潟県のその市のブースを訪れました。「地域おこし協力隊」とは、都市部の若者などに地方に移住・活動してもらい、定住につなげようと総務省が2009年度から始めた事業です。国の補助を受けた自治体が「隊員」を募ります。2019年度の隊員数は、全国1071の自治体で5349人。そのうち7割が20~30代で、50~60代は約1割にすぎません(総務省による)。

地域おこし協力隊|ニッポン移住・交流ナビ JOIN

 Kさんがのぞいたその市のブースは若い人でにぎわっており、自分でなくてもよい感じがしたといいます。手持ちぶさたにしていると、突然、隣の市の職員から声をかけられたそうです。「農業やりますか?」Kさんに、同市内の新田地区への移住を勧めます。そこはは市の中心部から車で約40分の山あいにあり、住民約130人の半数以上を65歳以上が占める、いわゆる「限界集落」です。
 自分を試すなら、中途半端な場所よりこういう限界集落がいいと考え、退職から間もない3年前に移住し、その春から稲の無農薬栽培に挑んでいるそうです。

 この市の「地域おこし協力隊」隊員の任期は2020年3月末で終わりを迎えましたが、Kさんは集落に残り、新たに魚沼市と「地域おこしアドバイザー」の契約を結んで、他の地区も含めた市への移住希望者をサポートすることになったそうです。Kさんには、政府や企業がとなえる「働き方改革」の視野が狭すぎるように思えてならないそうです。
「問われているのは『働き方改革』ではなく『生き方改革』ではないか」

 我々50代冴えないおじさんでも、かつての波平さんとは違い、会社人生とほぼ同じ時間が定年後に残されています。まだまだ気力体力もありますので、チャレンジする気持ちがあるならば、元気とエネルギー(活力)をいただける事例ではなかったでしょうか?
 今一度、輝きを求めて大車輪で回ってもよいかもしれませんね。会社のためでなく、自分の生き方のために

コメント

タイトルとURLをコピーしました