瞑想で心の勉強中
お金の勉強ばかりしていると心の安定を失ってしまいますので、50歳になってからヨガ教室に通って心の勉強をしています。今では勉強を始めた当初の心の混乱(頭の中も混乱していました)が完全に収まり、ポジティブとネガティブがプラスマイナスゼロの位置に到達できたのではないかと実感している今日この頃です。
今回、十牛訓という禅の教えで、修行の段階を解いた教えについてご紹介したいと思います。
潜在意識の浄化の指標としての十牛図、今おじさんの心はどの段階?
十牛図(じゅうぎゅうず)とは、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもので、作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)。
『十牛図』とは、逃げ出した牛を探し求める牧人の様子を、段階的に描いた十枚の絵です。十枚の絵には詩が添えられています。読み方は「じゅうぎゅうず」です。
「牛」は「ほんとうの自分」の象徴で、牛を探し求める牧人は「真の自己を究明する自分」をたとえたものです。「十牛図」とは、俗世間の生活の中で自分を見失い、ほんとうの自分を探しに旅に出る若者の物語です。

第一図:牛を尋ね探す「尋牛(じんぎゅう)」
ある日、牛の一頭が逃げ出したため、一人の牧童が、牛を探すために山や川に一人で捜索に出かけます。あちこちを見渡しながら、牛らしいものはいないかな、と目を見張って、そして探し出せないで困り弱っている状態です。
ちょうど50歳の働かないおじさんが自分の心を失って、会社を辞めようかと悩んでいた頃の状態です。
第二図:牛の足跡を見つける「見跡(けんぜき/けんせき)」
牛を探し求めて、山、または山と探し回って歩いた牧童が、どうやらやっとのことで、とある谷川のほとりで牛の足跡を発見したのです。そして、喜んじゃった。喜んだのと同時に人知れない不安で胸をドキドキさせながら、この足跡をたどっていけば牛が捕まえられるかなと、今まさに道を急ぎ行くところです。
おじさんで例えるならば、心の安定を求めていろいろな本を読んだり、ネットで情報を調べたりして、解決できそうな方法を見つけた段階でしょうか?
第三図:牛を見つける「見牛(けんぎゅう)」
第二図では牛の足跡を見たのですが、今度は牛の後ろ姿を見つけたのです。牧童が探し求めて、苦心に苦心をかさねて、ついに牛の後ろ姿を見た受けたところです。
心の勉強を始めて、何となく今まで感じたことがなかった”晴れ晴れとした気持ち”を感じて、ああ、人生とはそういううものかと、正しい人生観や世界観や宇宙観をおぼろげながらも心に考え出した時の喜びを映したものです。
第四図:牛を捕まえる「得牛(とくぎゅう)」
ようやく苦心惨憺(さんたん)の結果、牛を捕まえたのです。つかまえたには捕まえたのですが、なかなかこれが思うように言うことをきかない、ややともすれば元の山の奥に逃げ帰ろうと暴れる。そしてそれをまた、逃してなるものかと一生懸命に努力して引っぱりっこをしているとことです。
心の勉強を一通りして、勉強している時だけは分かった気がするのだけど、ネガティブなことが起きたり言われたりすると、勉強したことが自分のものになっていないように思う。ともすれば、教わった真理から離れたもとの生活に戻ろうとする。それを何とかして、一生懸命その真理の道から脱線しないようにと努力するという状態です。
第五図:牛を飼いならす「牧牛(ぼくぎゅう)」
この図は、牧童が発見して捕まえた牛を飼いならして育て上げようとする状態です。
おじさんの例でいうと、人生の真理を知って、その根本要素である心のポジティブ化を日常的にするために、煩悩と呼ばれる雑念・妄念をのぞききったと思っていても、今までの長いネガティブが主体であった生活習慣は、不意にパーッと心の中に埃をまき散らすことがあります。そうするとせっかくポジティブになった心が、逆戻りさせられてしまうことがあるのです。三歩進んで二歩下がるみたいなことでしょうか?
第六図:牛に乗って家に帰る「騎牛帰家(きぎゅうきけ)」
今までなかなか手なずけることができなかった荒牛も、次第に飼い主の思うように馴れてきて、もはや背中の上に乗って、のんびりと笛を吹いて、牛とともに楽しみながらうちに帰るようになった状態です。
おじさんはまだまだ修行が足らないので、このような状態には程遠いですが、ちゃんと日々の人生が敢えて注意しなくとも、また大した努力しなくとも、知らない間に心理の正しい境地に生きられるようになったという状態です。
人生の幸福というものは、病いと煩悶と貧乏、この三つがないことです。そういう不幸は、自分以外の人の身の上にはあるかもしれないが、もう私にはないんだと。そのすべてが、なんと自分の命のなかから用のないものになってしまって、命の力が充分に発揮できるようになった状態なのです。
第七図:あるがままに生きる「忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん)」
この絵には、牧童と一緒にいた牛がいないです。これはさらに修行が進んで気がついてみると、今まで求めていた牛、いわゆる心の安定をもたらす真理が、他のとことろにあるのではなく、また他のものでもなく自分自身であったということを暗示した図です。
修行に一生懸命勤めて、今まで求めていた真実の人生が、今まさその人と一体になった、だから敢えて幸福な人生を考える必要もなくなった状態です。
「晴れてより、曇りてよし、富士の山」
第八図:空白となる「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)」
なんと、誰もいなくなり、あるのは空白だけになっています。人も牛も忘れてしまった、何もない。仏教で言う「円相」の世界が描かれています。「円相」とは、修養がここまで進めばもはや一切の執着を超越して、迷いもなければ悟りもないことを象徴しています。聖人も凡夫も善人も悪人もない、ことごとく超越しているのです。
第九図:本源に還る「返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)」
この図は修養をしつくして、本然に変えるということ、悟って、悟って、悟りつくしてもとの本然の世界に返った状態です。この本然の世界と言うのは、なんの塵も汚れもない、情浄無垢の世界のことを言います。
そんな日がくるのを楽しみしています。
第十図:人の世に生きる「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」
この図の布袋さんは、牛を探していたかつての牧童です。布袋様というのは、七福神の一人として知られており、非常の度量の大きい人で、人がほめようとけなそうと気持ちの中に何にも感じないで、しょっちゅうニコニコ笑っていたという人です。誠と愛でひたすらに、人の世のためになることを言ったり、行なって、終始一貫して人間としての正しい境涯を生きている人のことを布袋様と思えばいいそうです。
第八図までが世の中の人の役に立つ自分を作る用意のための修行で、九図、十図にいたって初めて利他、人のために生きる命ができるということです。まず最初に自己完成の修行の努力をして、その行を積んだ後、今度は利他行、人の世のために尽くす行を積む、これが本当の修行の目的だということです。
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